ハプスブルク帝国とは何者か? どこまで領土が広がっていたのか?

チェコの歴史を学ぶ上で避けて通れないのがハプスブルク帝国です。ところがハプスブルク帝国の成り立ちや歴史は複雑で、なかなか頭に入らないのも事実です。今回はなるべく簡潔にハプスブルク帝国を紹介したいと思います。

ハプスブルク家はどこからやってきたのか?

ハプスブルク帝国は文字通り「ハプスブルク家の帝国」ですが、ハプスブルク家はどこからやって来たのでしょうか。この問いはなかなか難しいのですが、少なくとも10世紀以降に現在のフランス・ドイツ・スイス国境近くのライン川上流域に住んでいたという説が有力です。この頃のハプスブルク家は一豪族にすぎませんでした。

13世紀になるとドイツでは正統な王様がいない「大空位時代」と呼ばれる混乱があり、最終的にハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ国王に選出されました。彼はライバルであったボヘミア王オタカル2世からオーストリアやシュタイアーマルクを分取り、1278年にウィーンに入城しています。

「政略結婚で領土を広げた」は本当か?

よくハプスブルク帝国の紹介において「政略結婚で領土を広げた」という文言を耳にします。これは本当なのでしょうか。

16世紀まで一気に時代をさかのぼってみましょう。当時、チェコ・ハンガリー王であったヤギェウォ家のラヨシュ2世がオスマン帝国と対決したモハーチの戦いにより亡くりました。ハプスブルク帝国のフェルディナント1世とラヨシュ2世は義理の兄弟にあたり、どちらかの家系の相続者が途絶えた場合はもう一方の家が引き継ぐという協定がありました。

この協定に基づきフェルディナントはチェコとハンガリーを引き継ごうとしましたが、諸身分(ランクの高い人)は「納得できん!」と言い、最終的にチェコとハンガリーの王様は選挙で選ばれることになりました。つまりこの時点でフェルディナントは「一候補」に過ぎなかったわけです。

チェコでは有力な諸身分の支持を取り付けて選挙に勝利しました。一方、ハンガリーではサポヤイ・ヤーノシュとフェルディナンドが選ばれるという変則的な結果になりました。後に フェルディナント はサポヤイを武力で弾圧し、ハンガリーの支配を確立しました。このようにハプスブルク帝国は政略結婚だけで領土を広げたわけではない、という結論が得られます。

どこまでがハプスブルク帝国領だったのか?

よく「どこまでがハプスブルク帝国領だったのか」という質問を受けます。最大領土をざっくりと現在の国家に当てはめると以下の通りになります。ただし、ここでは19世紀におけるオーストリアのハプスブルク帝国に限定します。

オーストリア、チェコ、スロバキア、ポーランド南部、ウクライナ西部、ルーマニア西部、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、イタリアの一部

ヨーロッパでの勢力図は頻繁に変わるのですが、ハプスブルク帝国は現在の中央ヨーロッパを支配していた、と考えていいでしょう。中央ヨーロッパには様々な民族が住んでおり、ハプスブルク帝国は民族問題に苦慮しました。

ハプスブルク帝国が崩壊して100年以上が経過しましたが、現在でも中央ヨーロッパではハプスブルク帝国の名残が見られます。たとえばスロベニアの首都リュブリャナやクロアチアの首都ザグレブはどことなくウィーンの街並みと似ています。長期間にわたってハプスブルク帝国の支配下に入らなかったセルビアの首都ベオグラードと比較すると一目瞭然です。

またハプスブルク帝国に支配されていた国はカツレツが美味しいように感じます。中央ヨーロッパを訪れた際はハプスブルク帝国の名残を見つけてくださいね。

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投稿者プロフィール

nitta
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新田浩之(にったひろし)、1987年神戸市生まれ。神戸大学国際文化学研究科修了。2018年にチェコ政府観光局公認「チェコ親善アンバサダー」に就任。普段はライターとして関西の鉄道や中東欧・ロシアの鉄道や歴史などを書く。講演なども手掛ける。著書『ロシア・ヨーロッパの鉄道旅行について書いてみた』

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